新国立劇場はヴェリズモ・オペラの名作、ジョルダーノの『アンドレア・シェニエ』を取り上げ、その演出にフィリップ・アルローを起用しました。
確かにアルローは、2003年11月に同じく新国立劇場で『ホフマン物語』を演出し、このときは『ホフマン物語』の3つの世界観をうまく描き出し、公演を成功に導きました。しかし、『アンドレア・シェニエ』はヴェリズモ色の強いイタリア・オペラ。果たしてアルローの持つ独特の色彩感覚が通用するのだろうかと不安になりました。へたをすれば、ただの安い舞台になることが容易に想像できます。
アルロー自身も《現代か、逆に18世紀以前の作品に興味がある。一つの「型」が完成した19世紀イタリア歌劇には関心がない》と語っています。確かにアルローの演出を見てみれば、ヴェリズモ・オペラとは相性が悪いと誰もが感じるに違いありません。その上で、今回の演出をあえて引き受けた彼は、《自分と闘って、新たな美学を打ち出す》という意気込みを見せていました(日経新聞インタビューより)。
そして、今回の演出ですが、私は結果が出たと思います。ヴェリズモ・オペラもこのような見せ方ができるのか、と感心しました。
まずフランス革命期の断頭台をイメージさせる斜めの切り込みを利用したセンスのいい舞台の作り。また、さすが“色彩の魔術師”との評判が高い照明や映像の技術。全体の色調を白で統一しておくなど用意周到です。さらに全4幕にそれぞれ絵画のイメージを下敷きにしておき、理論武装も施されています。
評価の分かれるところは、幕の最後で使った音響効果でしょうか。やはり音の効果はオケの音で勝負してほしい、そこまで演出が踏み込んでいいのか、と良し悪しの判断が難しいところです。また、ラストシーンで、シェニエとマッダレーナの名前が呼ばれる場面、そこでもマイクを通した声を使っていました。急に異質な声が現れる点で、強調されて効果的なのか、それとも音の流れが滞って邪魔なのか・・・私は少し引っかかりました。
ただこのラストシーンに向かっての演出はすばらしいと思いました。オペラの原型を崩しているのにもかかわらず、違和感はありません。公演プログラムでアルローが《現代の我々が何を成すべきなのか・・・具体的なメッセージを受け取って頂ければと思います》と述べているように、子供たちを使って直接的なわかりやすいメッセージを発信していました。
アルローの演出は成功だったと思いますが、それ以前にやはり私には新国立劇場の意図がよくわかりません。『ホフマン物語』の再演はわかります。しかし、なぜ『アンドレア・シェニエ』の演出をアルローに任せたのか。新国は実験の場ではないと思います。あの『フィガロの結婚』で始まったノヴォラツスキー芸術監督体制ももう少しで終わるので、そのときに改めて考えてみたいと思います。
本来、ジェラール役はカルロス・アルヴァレス(Br)の予定でしたが、代わってセルゲイ・レイフェルクス(Br)が歌いました。はっきり言って、レイフェルクスほどの歌手が代役でなければ、私は払い戻しをしていたところです。
マッダレーナ役のゲオルギーナ・ルカーチ(S)は堅実な歌唱。欲を言えば、マッダレーナの弱さも表現してほしかったです。タイトル・ロールのカール・タナー(T)に関しては、新国立劇場2003年11月の『トスカ』での出来を考えれば、なぜまた起用することにしたのか疑問が残りました。それから、ルーシェ役を歌った青戸知(Br)は焦点の定まらない歌唱。いい歌手と思っていただけに、少し不満が残りました。次に期待します。
ミゲル・ゴメス=マルティネスの指揮は重かった。ヴェリズモ・オペラなので軽いのは嫌なのですが、そういう意味の重たさではなく、音楽が前に進まない意味の重たさでした。
(2005/11/27)
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