『ウェルテル』をバリトンが歌う・・・、というだけで即座に聴いてみたくなりました。なぜなら私自身がバリトンでして、それもとても高い方のバリトン、つまりハイ・バリトンでありまして、もう少しでテノールに届く・・・ということは絶対にないのですが(音色等の理由で)、あのテノールが歌うアリアを私も歌ってみたいという望みをいつも持っているのです。
最近はカラオケ・ボックスに行くと、多少、オペラのアリアなども入っていたりします。というか、先日、何年かぶりに行く機会があって驚きました。カヴァラドッシのアリアを移調して、マイク片手に、カラオケ・ボックスを牢屋に見立てて、星を仰ぎながら、寂しく、いや、正確にはむなしく歌い上げることもできるようになりました。
それは冗談としても、私がテノールとバリトンの境界に興味があるのは、本能的と言えるかもしれません。ベルゴンツィがバリトンからテノールに転向したと聞けば、その声を聞いて驚いたり、同じくバリトンからテノールに転向したドミンゴが、『セヴィリャの理髪師』のフィガロを歌うとなれば興味深く聴いたり(アバド指揮ヨーロッパ室内管弦楽団、録音1992年)、『愛の妙薬』のネモリーノのアリアをアラーニャが調を下げて歌ったと聞いては聴いたり(ピド指揮リヨン・ナショナル・オペラ、録音1996年)、そしてクーラの声を不思議に思ったりしています。
プラッソンが指揮するこのDVDは、『ウェルテル』のタイトルロールをバリトンのトーマス・ハンプソンが歌っています。このオペラが1892年に初演されたとき、マスネはウェルテルの役をテノールが受け持つことについて不満を持っていたそうです。もっと心理的に深く掘り下げるにはバリトンという声質が必要だったのかもしれません。
これで、私もウェルテルが歌える・・・と喜んだのも束の間。このDVDを聴いてみて、やはりウェルテルはテノールがいいのではないかと思いました。
私のウェルテル像の問題なのかもしれませんが、バリトン、しかもハンプソンが歌うウェルテルは太すぎるのです。ここで言う「太い」は声のことだけではありません。簡単に言えば、神経が太い。図太いウェルテルを感じてしまうのです。
ウェルテルの魅力は、神経の細やかさにあると思います。線の細いテノールに緊張感のあるアリア「春風よ、なぜ私を目覚めさせるのか」を歌ってほしい。そんなウェルテル像とかけ離れたバリトン・ウェルテルだったのです。
私が受けたこのマイナスイメージは、バリトン・バージョンのせいなのか、ハンプソンのせいなのかは判断できません。けれど、私の好きなマスネのオペラ『タイス』のアタナエルのような魅力は、このウェルテルからは感じることができませんでした。
シャルロット役のスーザン・グラハムは貫禄の歌唱。一つの作品として、このディスクはよくできていると思います。演奏会形式なのですが、できれば舞台上演を見たかったところ。
私と同じようなコンプレックスをお持ちの方にはおすすめできます。あまりいないとは思いますが。
(2007/05/20)
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