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イタリアの宮廷では、王侯や貴族が、例えば結婚式や子どもの生誕といった機会に、盛大な式典を催し、その権力を誇示することが求められていました。このような式典で演劇が上演されることもあり、そこには音楽がつき、合唱が入っているものもありました。
フィレンツェの貴族ジョヴァンニ・デ・バルディ(1534-1612)の下に集まったカメラータと呼ばれる集まりがありました。それは芸術を議論することを好む知識人のグループでしたが、このグループの議論の中で、当時演劇に付随していた音楽について、感情に訴えかける力が足りていないのではないか、との不満の声が上がっていました。
バルディが1592年にローマに移った後、フィレンツェの芸術の中心にいたのはヤコポ・コルシ(1561-1602)という人物でした。こうしたカメラータの人々の間で、古代ギリシャ悲劇が採用していた劇に音楽を付ける手法を復活させようとする考えが芽生えます。
その試みが初めて実践に移されたのが、オッターヴィオ・リヌッチーニ(1562-1621)が台本を書き、ヤコポ・ペーリ(1561-1633)が作曲した「オペラ」でした。このオペラ第1作目の主題は『ダフネ』で、1598年に初演されました。『ダフネ』はその後、数回の上演機会があったとされますが、その音楽は現在では失われています。
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1600年、フランス国王アンリ4世とメディチ家のマリー・ド・メディシスの結婚式がフィレンツェのピッティ宮殿で執り行われることとなり、そのときの祝祭劇としてペーリのオペラ『エウリディーチェ』が上演されることになりました。このときの『エウリディーチェ』は、結婚を祝う他の催し物に隠れて目立った成果が得られなかったと言われています。しかし、このオペラは翌年に楽譜が出版され、現存する最古のオペラとして知られています。
オペラという新しい試みで重要な点は、この試みを実行した芸術家の間で、音楽が人間の感情に直接訴えかけることに気づき、それを台詞を歌う、すなわち歌による語りという方法を用いて劇的表現を実現したことです。台詞が歌われるという虚構の劇を創作するのに際して、その演目には芸術の神アポロン、吟遊詩人オルフェオなどの神話が選択されていました。
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アンリ4世とマリー・ド・メディシスの結婚式には、フィレンツェから北200kmに位置するマントヴァの公爵も出席していました。このときマントヴァ公爵がペーリの『エウリディーチェ』を観たかどうかはわかっていませんが、その付き人として同行していたアレッサンドロ・ストリッジョ(1573?-1630)は、1607年、『オルフェオ』の台本を書き、それに当時マントヴァにいたクラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)が作曲してオペラを創作します。このときすでに劇音楽の技法を手にしていたモンテヴェルディによって、オペラ史上初めての本格的な作品が生み出されたのです。
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こうしてフィレンツェで誕生したオペラは、イタリア各地に広まっていきましたが、最も盛んにオペラを上演したのはヴェネツィアでした。
オペラはヴェネツィア市民に歓迎され、1637年にはオペラを上演するためのサン・カッシアーノ劇場が建設されます。その後も数年の間に次々と建設され、7つの劇場が並んで新作オペラを上演していきます。これらの劇場では、興行主が、人々の期待に応えられるオペラを作曲家に書かせることができるか、そして実力、人気とも十分な歌手を舞台に揃えられるか、といった点で上演の良し悪しが決まることになります。
その中でマントヴァを離れ、1613年にヴェネツィアのサン・マルコ寺院の楽長に就任していたモンテヴェルディは、その晩年に2つの傑作オペラ『ウリッセの帰郷』と『ポッペアの戴冠』を作曲しました。1607年の『オルフェオ』から30年が経過していますが、『オルフェオ』との違いとして、その題材を神話ではなく、より現代に近いトロイ戦争やローマ皇帝ネロなどの歴史から採っている点が挙げられます。それはオペラの舞台が現実の世界と近くなることを意味し、オペラの舞台で台詞が全て歌われていることへの違和感が顕在化することになります。それでもこうした題材が選ばれるということは、オペラの中でアリアという形式が、人間の感情に直接訴える表現手段として人々に受け入れられていったことを示していると言えるでしょう。
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イタリアの古典劇から始まったオペラは、ヴェネツィアで商業オペラとして成り立つようになると、観客の嗜好に合わせて喜劇的な要素や機械仕掛けの派手な演出が差し込まれることになります。
こうした中で最も観客の注目を集めたのがオペラのアリアであり、それを歌う歌手でした。17世紀から18世紀のオペラハウスではカストラートが活躍し、むしろオペラ・アリアはカストラートたちの技量や能力を見せつけるための手段ともなりました。ダ・カーポ形式のアリアが主流となり、繰り返されるダ・カーポ部(反復部)でカストラートたちは即興的な装飾音を歌い、その華麗さを競います。このような行き過ぎたアリア偏重の舞台は問題視されましたが、逆にオペラには欠かせないアリアの発展に関する重要な意義を指摘することもできます。また、これと同時に、カストラートたちの競演は、オペラの声楽様式として「美しい歌」を意味するベルカント唱法が、美的な価値として確立されていくことにも寄与しました。
この時期の主要なオペラ作品としては、フランチェスコ・カヴァッリ(1602-1676)の『エジスト』(1641年、ヴェネツィア初演)、同『セルセ』(1655年、ヴェネツィア初演)、アントニオ・チェスティ(1623-1669)の『オロンテーア』(1656年、インスブルック初演)、同『金のリンゴ』(1668年、ウィーン初演)などがあります。
これらの作品はイタリアの各地で上演され、さらにはヨーロッパの他の国にも広がっていきました。オペラがヨーロッパの各都市に広まるとき、その土地の慣習や趣味に合わせて、改編や加筆が行われます。オペラは、他国で見出されたこれらの特徴をそれぞれ吸収していく包容力を備えており、そのような力をオペラが持っていたことは、オペラの普遍化に寄与し、オペラが世界的に受容される芸術となることに貢献したと言えるでしょう。
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ヴェネツィアを中心に発展したオペラでしたが、18世紀になると新たな中心的な都市としてナポリが登場します。これをナポリ・オペラ楽派と呼び、17世紀のヴェネツィア・オペラ楽派に続き、オペラ・セリアの発展に指導的な役割を果たしました。
17世紀後半のオペラは、低俗な笑劇、神の出現、不自然で派手な舞台など雑多な出し物と化していたことから、これを改革しようとする機運が高まっていました。アポストロ・ゼーノ(1668-1750)はヴェネツィア生まれの学者で、台本の書き起こしからオペラ・セリアを規定し始めました。その題材を古代史から採用し、登場人物を7人前後として整理します。ゼーノの台本のいくつかは、その生涯で65作品を超えるオペラを書いたアレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)や、80作品近くのオペラを書いたアントニオ・カルダーラ(1670-1730)も作曲しました。
さらに重要な改革は、ゼーノと同じく台本作家であるピエトロ・メタスタジオ(1698-1782)から起こりました。メタスタジオは、台本だけでなく音楽にも関心を持ち、作曲家などと相談しながら、オペラ・セリアを整えていきました。その特徴としては、歌詞になることを前提に台本を創作し、ダ・カーポ形式のアリア向きの2節の詩を書き、そのようなアリアを歌ってから歌手が退場するように配置しました。オペラの構成として、レチタティーヴォで劇が進行し、アリアで登場人物の感情を表現するというレチタティーヴォとアリアの両立が示されました。メタスタジオの台本からは、多くの作曲家の手によって1,000作品近くのオペラが生み出されたと言われています。
メタスタジオは、ナポリで活躍した後、宮廷詩人の地位にあったゼーノの後任としてウィーンに移りました。当時のウィーンは、カール6世の下、ハプスブルク家が芸術に多くの資金を提供していました。そこでは、ヨハン・ヨーゼフ・フックス(1660-1741)のオペラ『不動にして堅き砦』(1723年、プラハ初演)や、カルダーラのオペラなどが上演されていました。メタスタジオの台本はウィーンでも多くの需要があり、例えば、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710-1736)やヨハン・アドルフ・ハッセ(1699-1783)がその台本でオペラを作曲しました。
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17世紀後半のゼーノとメタスタジオによる改革でオペラ・セリアと引き離された喜劇的な要素やオペラ・セリアのパロディなどは、それ自体が独自の発展を遂げることになります。
ヴェネツィアやナポリでオペラ・セリアが上演されるときには、そのオペラの幕間に、インテルメッゾと呼ばれる規模の小さな、そして気軽な喜劇が演じられる習慣がありました。オペラ・セリアの多くが3幕で構成されていましたので、1幕と2幕の間、2幕と3幕の間に、幕間が2回あります。そこに、2つのインテルメッゾが上演されていましたが、次第に第1部、第2部という形で1つの喜劇となっていきます。
1733年にナポリでペルゴレージは3幕のオペラ・セリア『誇り高い囚人』を上演し、そのとき幕間用のインテルメッゾとして『奥様女中』を作曲しました。このインテルメッゾが大変な評判となり、単独でも取り上げられるようになります。オペラ・セリアから切り離された喜劇的な要素を持つオペラ・ブッファは大変な人気を得て、多くの作品が生まれました。
オペラ・ブッファは、オペラ・セリアと違ってアリアが少なく、レチタティーヴォの快活さで客席を魅了していきます。カストラートが使われず、ソプラノ歌手とバス歌手が活躍し、喜劇的な面を持つことから演技力も求められました。
こうしたオペラ・ブッファには、ジョヴァンニ・パイジェッロ(1740-1816)の『セヴィリアの理髪師』(1782年、サンクトペテルブルグ初演)、『ニーナ』(1789年、ナポリ初演)や、ドメニコ・チマローザ(1749-1801)の『秘密の結婚』(1792年、ウィーン初演)などの作品が名作として知られています。
さらにオペラ・ブッファでは、その発展とともに重唱が多用されるようになり、18世紀後半からは各幕のフィナーレについて、その主題が一貫性を持ち、規模が大きいものが作曲されるようになっていきます。
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