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2.各国のオペラの始まり







フランスのオペラ

 フランスのパリでも、イタリア・オペラが上演されました。イタリア人でフランス宰相となった枢機卿マザラン(1602-1661)の指示により、オペラ上演が進んでいきます。

 こうした上演に際しては、豪華な舞台が用意され、バレエが挿入されるなどしてオペラが誇張されていました。フランスでこのようにオペラを自国仕様とすることは、単に趣味趣向の観点からだけではなく、イタリア文化に対抗すること、また、フランスの音楽文化が優れていることを明らかにしたいという一つの試みでもありました。

 ルイ14世の下でオペラ・アカデミーが創立され、その後のアカデミーでは、フランスの芸術が他より優れていると主張した詩人ピエール・ペラン(1620頃-1675)と作曲家ロベール・カンベール(1627頃-1677)によってオペラ上演が本格化します。



リュリとラモーのトラジェディ・リリック

 アカデミーから追放されたペランの跡を継いだのがジャン=バティスト・リュリ(1632-1687)です。リュリはアカデミーの新たな指導者として、毎年1作ずつ新作オペラを発表していきます。リュリとタッグを組んだのは詩人のフィリップ・キノー(1635-1688)でした。

 リュリがフランス・オペラの確立のために果たした役割としては、器楽的な音楽部分を充実させたこと、喜劇的要素を加えたこと、スペクタクルな舞台としたこと、舞踊(バレエ)や合唱を取り込んだこと、フランス語によるレチタティーヴォの手法を確立させたことなどがあります。5幕からなるギリシャ神話や中世の英雄物語などの古典劇を題材とし、序曲で緩急の2部形式、緩急緩の3部形式を使用しました。こうしたフランスのオペラ形式をトラジェディ・リリック(叙情的悲劇)と言い、リュリが定着させました。

 リュリの後には、『和声論』を書き、理論家のジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)が、1730年代に50歳を超えてからオペラを書き始めました。ラモーはオーケストラにホルンとクラリネットを加え、奏法としてもピッツィカートやグリッサンドを導入するなど、器楽部分をリュリから一層進展させました。ラモーは『イッポリートとアリシー』(1733年、パリ初演)等を作曲し、フランスのバロック・オペラを牽引しました。

 リュリとラモーを中心として、フランス語によるレチタティーヴォの表現、複雑な和声を伴う音楽を持つフランスの伝統的なオペラが、アカデミーのスタンダードとして認識されるようになったのです。



ブフォン論争

 1752年にリュリの『アシスとガラテ』の幕間劇として、ペルゴレージの『奥様女中』が上演され、イタリアのオペラ・ブッファが紹介されると、これが一つの契機となり、「ブフォン論争」が起こります。

 フランスの伝統的なオペラに対し、イタリアのオペラ・ブッファは軽快なレチタティーヴォと美しい旋律にあふれたアリアから成るとして、イタリア・オペラの優位性が主張されました。まさに、フランス音楽対イタリア音楽というような価値を争うものとなりました。

 従来のフランス・オペラを批判した一人にジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)がいます。ルソーは、ブフォン論争が起こった1752年に『村の占い師』を上演し、和声の上に旋律が浮かび上がるイタリア風の音楽を提示しました。

 こうしてイタリアのオペラ・ブッファがフランスにも影響を及ぼし、オペラ・コミック座では次第にオペラ・ブッファのフランス語上演や、フランス語の喜劇オペラが創作されるようになります。このとき、フランス語による喜劇オペラについては、レチタティーヴォ部分が普通の台詞として創作され、その他のアリアや二重唱、フィナーレなどに曲が付けられる形をとり、それが標準となっていきました。19世紀には、このようなフランス・オペラの形式をオペラ・コミックと呼ぶようになり、多くの作品が創作されました。



イギリスのオペラとヘンデル

 イギリスでは、イタリア音楽が模範とされ、イタリア・オペラが上演されていました。また、フランス・オペラも紹介され、イタリアとフランスの両方のオペラが取り入れられました。

 英語を使用した本格的なイギリス・オペラは、ジョン・ブロウ(1649-1708)によって試みられます。その弟子にあたるヘンリー・パーセル(1659-1695)も、『ディドとイニアス』(1689/1690?年、ロンドン初演)を作曲し、このオペラは今日まで傑作として認められています。 ただし、その後もイギリスでは、イタリア・オペラを上演することが主流となりました。

 ドイツ人で本場のイタリアでオペラ作曲家として活躍したゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)が、1711年にロンドンで『リナルド』を上演すると、その後もヘンデルはロンドンにできた王立の音楽アカデミーにおいて、カストラートを含むイタリア人歌手とともに、次々とオペラを発表し、『ジュリオ・チェーザレ』(1724年、ロンドン初演)や『セルセ』(1738年、ロンドン初演)など30以上の作品が受け入れられました。ヘンデルのイタリア語によるオペラは、序曲は緩急緩のフランス式、アリアはダ・カーポ・アリアを使いました。

 アカデミーにおけるヘンデルのオペラ上演の最中、1728年、ジョン・ゲイ(1685-1732)の英語台本によるオペラ『乞食オペラ』が上演されると、当時の上流社会やイタリア・オペラの流行を風刺して人気となり、これはイタリア・オペラから人々の心を遠ざける一因となりました。この『乞食オペラ』は流行の旋律を台詞でつなぐバラッド・オペラの代表作でもあり、バラッド・オペラはイギリスの聴衆に大いに歓迎されました。逆にイタリア・オペラはふるわなくなり、ヘンデルもオペラの創作をやめ、その作曲技法を活かして『メサイヤ』をはじめとするオラトリオの分野で功績を残すことになります。



ドイツのオペラ

 ドイツ諸国にも、イタリア・オペラは広まっていき、ザルツブルクでは早くからオペラが上演されました。また、ウィーンにはチェスティが訪れ、皇妃の誕生日に『金のリンゴ』が上演されました。ゼーノやメタスタジオがイタリアからウィーンに拠点を移し、彼らの台本は、多くの作曲家によって音楽がつけられました。

 ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699-1783)は、ハンブルクで学んだ後、イタリアに移り、ヴェネツィアで『アルタセルセ』(1730年、ヴェネツィア初演)を作曲して注目されました。ハッセはドレスデンに移ってからも新作オペラを発表し、評価されました。

 ベルリンでは、カール・ハインリヒ・グラウン(1704-1759)が『モンテズマ』(1755年、ベルリン初演)など多くのオペラ・セリアを上演しました。

 1678年、ハンブルクに建てられた市民のためのゲンゼマルクト劇場では、1738年に閉鎖されるまでドイツ語のオペラを中心に上演されました。1695年にハンブルクに来たラインハルト・カイザー(1674-1739)はイタリア語とドイツ語を両方使ったオペラ『王子ヨーデレト』(1726年)などを発表しています。その後、この劇場で50を超える作品を上演しています。

 ヘンデルも最初ハンブルクでヴァイオリン奏者、チェンバロ奏者として活動し、また、オペラも作曲していました。その後、イタリア留学を経て、前述のようにイギリスで活躍することになります。ゲオルク・フィリプ・テレマン(1681-1767)もハンブルクでドイツ語による多くのオペラを上演しています。

 しかし、ハンブルクの劇場が閉鎖される頃には、ドイツの他の都市でもイタリア・オペラが主流となっていました。

 ドイツではそれまでどんな種類のオペラもジングシュピールと呼んでいましたが、この頃に席巻したイタリア・オペラは、一般にイタリア語の「オペラ」として認識されるようになりました。その一方、ドイツ語の歌が入った喜劇的な音楽劇を指してジングシュピールという呼称が使われ、フランスのオペラ・コミック、イギリスのバラッド・オペラの影響を受けながら独自に発展していきました。





「3.グルックのオペラ改革と
天才モーツァルト」
に続く








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