トップ > オペラ・データベース > オペラの歴史 > オペラ改革とモーツァルト





















2023年新刊
名作オペラをやさしく解説



面白いほどわかる!
オペラ入門
名アリア名場面はここにある

 神木勇介 著

 青弓社 発行
 定価1,800円+税

詳しくはこちら


オペラのことをいちから学ぶ
声、歌、音楽、演出について



オペラ鑑賞講座 超入門
楽しむためのコツ

 神木勇介 著

 青弓社 発行
 定価1,600円+税

詳しくはこちら


「オペラ情報館」が
本になりました



オペラにいこう!
楽しむための基礎知識

 神木勇介 著

 青弓社 発行
 定価1,600円+税

詳しくはこちら






3.グルックのオペラ改革と
天才モーツァルト







ウィーンのオペラ

 こうしてヨーロッパの各地にイタリア・オペラが広まり、あるいはその影響が大きく及ぶことになった一方で、本家のイタリアのオペラ・セリアを改革しようという機運がウィーンを発信源にして現れてきます。

 まずウィーンで、ニッコロ・ヨンメッリ(1714-1774)は、メタスタジオの台本を使用してオペラを作曲していました。ヨンメッリはその後、ドイツのシュトゥットガルトに居を移し、当時そこでフランス風が流行っていたことからフランス・オペラの合唱やバレエの使い方を研究し、イタリア・オペラにそれらを取り込んでいきました。



オペラ改革

 クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)は、ウィーンの修業期間にイタリア・オペラを見て、これに傾倒するようになります。ミラノに出て初めてのオペラを発表した後、イタリアのみならずヨーロッパ各地を巡り、ウィーンに戻ります。

 ウィーンではマリア・テレジアの前でオペラを上演するなど確固たる地位を築いていました。しかし、グルックはそれにあきたらず、従来のメタスタジオの台本によるオペラ・セリアの型どおりのオペラから脱却を図ります。当時のウィーンで流行り始めていたフランスのオペラ・コミックの手法を取り入れたのです。

 加えて、ちょうどパリからウィーンに移ってきた台本作家のラニエロ・デ・カルツァビージ(1714-1795)と意気投合し、オペラ改革を進めることになります。 そのオペラ改革の趣旨は、オペラ『アルチェステ』(1767年、ウィーン初演)の序文にも示されており、「平明さ」や「明晰さ」に触れ、ドラマの内容を重視することを謳いました。

 グルックはカルツァビージと組んだオペラ第一作目の『オルフェオとエウリディーチェ』(1762年、ウィーン初演)で、華美な装飾を排除し、合唱を要所で用いて、明晰なドラマの上に簡潔な音楽表現によりオペラを仕上げています。



グルック・ピッチンニ論争

 グルックはウィーンでマリー・アントワネットの音楽教師をしていましたが、彼女がフランス皇太子妃として嫁いだ後、パリにグルックを招待したことで、グルックはパリでオペラを発表していく機会を得ました。

 そこでフランス・オペラのエッセンスを吸収し、『アウリスのイフィジェニ』(1774年、パリ初演)、『タウリスのイフィジェニ』(1779年、パリ初演)でオペラ改革の終着点にたどり着きました。グルックはフランス・オペラの様式を使用して、目指していた劇作としての改革オペラを体現することができたのです。

 このようにグルックは、イタリアのオペラ・セリアの型を破り、カストラートのアリアの競演に陥っていたオペラを、ドラマ主体のオペラへと改革し、オペラ・セリアに新しい息吹を吹き込みました。

 その一方で、パリの人々の中には、従来のイタリア・オペラを愛好する人もいました。そうした人たちは、当時ローマやナポリで活躍していたニッコロ・ピッチンニ(1728-1800)をパリに招聘し、グルック派に対抗しようとしました。こうして「グルック・ピッチンニ論争」として、グルック派とピッチンニ派が対立したのです。

 オペラ史では、グルックの示したオペラ改革に対し、ピッチンニが古いオペラ作曲家の代表のように描かれますが、実際のところは当事者のピッチンニはこうした争いに興味を示さず、1791年にナポリに帰ったそうです。



宮廷楽長サリエリ

 グルックのオペラ改革をウィーンで引き継いだのは、アントニオ・サリエリ(1750-1825)です。

 サリエリはヴェネツィアで孤児であったところ、ウィーンで音楽教育を受けて開花し、イタリアのオペラ・セリア、オペラ・ブッファ、そしてフランス・オペラと、ここまで発展してきたオペラがサリエリの才能の下で収斂することとなります。

 サリエリは、オペラ・ブッファ『教養ある女たち』(1770年、ウィーン初演)、オペラ・セリア『アルミーダ』(1771年、ウィーン初演)で成功すると、皇帝ヨーゼフ2世の下で、1788年、宮廷楽長に就任しました。1795年からはウィーン音楽家協会のコンサートで活躍し、ウィーン音楽院の院長も務めます。その間、オペラ・ブッファ『ファルスタッフ』(1799年、ウィーン初演)など多くのオペラを作曲しました。

 なお、1792年にサリエリの後に宮廷楽長を継いだチマローザは、オペラ・ブッファの『秘密の結婚』で成功しました。



ハイドンのオペラ

 また、ウィーンから1761年にアイゼンシュタットに移り、ハンガリーの貴族エステルハージ侯爵に仕えたフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)は、エステルハーザ宮で他の作曲家のイタリア・オペラを上演する傍らで、ハイドン自身も上質なオペラ・セリア『アルミーダ』(1784年)、オペラ・ブッファ『薬剤師』(1768年)などをエステルハーザ宮で上演しました。



モーツァルトのダ・ポンテ3部作

 18世紀後半にウィーンを支配したハプスブルク家で、マリア・テレジアの次に実権を握ったヨーゼフ2世は音楽を愛好し、宮廷楽長のサリエリなどからも学び、ピアノを弾き、声楽もたしなみました。この皇帝の下、ウィーンのブルク劇場では一流のイタリア人歌手たちが招請され、イタリアのオペラ・ブッファが導入されました。

 このとき劇場専属詩人としてロレンツォ・ダ・ポンテ(1749-1838)が雇われ、オペラ・ブッファの台本を書きます。ダ・ポンテはボーマルシェの戯曲3部作から『フィガロの結婚』の台本を準備しました。ボーマルシェ3部作からはすでに、その第1作を採用してパイジェッロが作曲した『セヴィリアの理髪師』がウィーンで好意的に受け入れられ、その下地は整っていました。そして、このときザルツブルクの大司教とたもとを分かったモーツァルトはウィーンに移っており、モーツァルトがこのダ・ポンテの台本に作曲することが実現します。

 1786年、ブルク劇場で『フィガロの結婚』が初演されました。 『フィガロの結婚』はその後、プラハで上演されると、プラハの聴衆に熱狂的に迎えられます。プラハの劇場支配人のリクエストを受けてモーツァルトは翌1787年、『ドン・ジョヴァンニ』を作曲しました。

 ここでモーツァルトの『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』によって、それまでのオペラ史におけるオペラの発展が結実し、その芸術形式として一度完成を見たと言えます。イタリアで生まれたオペラは、その特徴として様々な劇形式を吸収していきました。オペラ・セリアの発展によってブッファの要素が切り離され、そこでオペラ・ブッファが独立し、オペラが当初から目指していた人間の感情表現の表出に近づきます。モーツァルトは『フィガロの結婚』において伯爵に伯爵夫人が許しを与える人間的な愛を描き、『ドン・ジョヴァンニ』において地獄落ちという壮絶な場面によって人間の死を描き、モーツァルト以降のオペラそのものの主題と言える「愛と死」を示したのです。

 その後、モーツァルトは『コジ・ファン・トゥッテ』というもっとブッファの特徴を純化させたオペラを作曲しました。しかし、モーツァルトのオペラはドイツ語圏のみで評価され、当時のイタリア・オペラへの影響は少なかったようです。 ヴ





4.イタリア・オペラ史」に続く








Copyright (C) 2005-2025 Yusuke Kamiki. All Rights Reserved.